「地へ、地の上空へ、水晶宮の内へ、外へ」
石井友人
都市空間を歩きながら、ガラス・カーテン・ウォールに映し出された空や街並み、そして自分自身を眺める時、奇妙な浮遊感を感じます。今、私が現象として眺めている風景は、模像としてもガラスに映し出され、都市の風景は二重化されて知覚されているように感じます。
そこにはビルの内部、つまりガラスの内側を隔たりと共に見つめる私の眼差しも同時に存在し、多くの場合、消費の欲望と結びつきながら頭の中では、瞬間毎に記号的処理が行われているようです。
都市の風景はこのような視覚の多重性を帯びながら、その視覚を自身の鏡像を含み込んだものとして内面化し、更に内面化の過程を無色透明なものとしています。この無色透明な内面化の過程こそが都市の浮遊感の原因なのかもしれない。そんなことも考えたりします。
最近の絵画の制作では、ガラス・カーテン・ウォールのこの無色透明なレイヤーを絵画の画面に重ねることを先ずは考えています。その上で、このレイヤーの作用を記号処理を推し進める、都市化・人間化の方向ではなく、そのさかしまである非ー記号的なもの、非ー人間的なもののベクトルに変質させることは出来ないかと考えています。
それは、ルイス・キャロルが言語表現の中で、言語を意味のベクトルではなく、無意味なベクトルに変質させたことを私に思い起こさせます。
ガラスによって二重化された現代の都市の風景は、その源を辿れば、ロンドン万博が開催された際に建造されたクリスタル・パレス(水晶宮)に繋がると私は考えています。
産業革命によって可能になったガラスの大量生産は、万博会場をはじめ、ガラス屋根の駅舎、大温室、そしてウィンドウショッピングという人々の眼差しを誕生させました。時代の変化が生み出したそれらのものは、キャロルの小説でも少なからず意味を変質させる為のモチーフとなっているのではないでしょうか?
私の絵画作品で描かれる観葉植物の鉢植えの多くは、窓ガラスの近くに置かれたものです。今回の展示では丸の内や大手町のオフィスビルに置かれた観葉植物を多く描いています。
私がモチーフとしてこれらに惹きつけられるのは、観葉植物が自然物なのか人工物なのかよくわからないものとして存在している点にあります。これは生き物なのか、オブジェなのか。身の回りに存在する、大地との接続を欠いた緑豊かなものとは一体何なのか、私はとても興味があります。
哲学者のエマニュエーレ・コッチャは生態学的・構造的に、植物は二重の存在であると述べています。植物の根を潜在する第二の身体として捉え、植物の地表でのあらゆる努力が向かう先と丁度正反対へ植物自身を向かわせます。植物の地表での見えている姿と地中にて潜在する根の活動の二重性こそが、私たちが生きているこの環境自体を生み出していると彼は述べています。地中の鉱物的な世界と太陽の光線を混合することにより、私たちが住まう環境は創り出されていると。
翻って言えば、観葉植物の鉢植えには、地中に潜在する活動領域が限定的にしか与えられていないと私は思います。大地へのアクセスが絶たれていること。そのこと自体が観葉植物の社会空間での生の条件になっています。それは私たち人間がこの地表において生きる、生の条件とも大きく重なるでしょう。
「地へ、地の上空へ、水晶宮の内へ、外へ」という展覧会タイトルは、一枚の絵画の鑑賞経験の中で起きる出来事の一部を恣意的に抜き出し、言語として表したものです。
都市の風景の持つ視覚の多重性、無色透明な内面化の過程と浮遊感。環境との限定された関係性と絶たれた大地へのアクセス。
それらは反転構造を伴ないながら絵画が描き出されるモチーフとなっています。
「地へ、地の上空へ、水晶宮の内へ、外へ」アーティスト・ステートメント, 2022年
「ミラーレス・ミラー」
石井友人
「わたしの穴 美術の穴」というプロジェクトで、穴というモチーフを発見し突き詰めていった時、私にとっての穴は、身体における眼球やカメラという光学装置といった、現象しているイメージを受像する穴状の空間にあると考えるに至った。この穴状の空間に空いた僅かな隙間から差し込む光が、穴の奥のスクリーンに当たり、イメージを仄かに映し出している。しかし、ここで大事なことは、穴の奥にイメージが映し出されている状況と共に、そこにはそのイメージを見て、読み込み、認識する人間がいる、ということだった。ただ単に映っているイメージと、イメージに意味を見出していく人間、そのイメージと人間の関係自体がテーマとなり得たのだ。
私たち人間はこのような穴状の空間でイメージを受像した後に、それを模像として外部化する存在であるだろう。人間の眼で捉えられた光の情報が手によって絵画として描き出される時、その再現的なイメージは鏡というモデルで語られることもあるし、光学装置であるカメラからアウトプットされる写真は、その客観的かつ精緻な模像の在り方から一種の鏡として受け止められることがあるだろう。モニターやプロジェクションにおける映像、そして最近ではデジタルデバイスを用いたミラーリング機能まで、穴を通過した後に人間によって意味付けられ外部化されるイメージは、私たちの日常生活のありとあらゆる局面において存在するだろう。
「ミラーレス・ミラー」という言葉を思いついたのは、2021年に私が実際に「ミラーレス・カメラ」を購入したことがきっかけだった。購入したカメラの内部では鏡が取り払われているという。反射板の有無はカメラのサイズダウンを促すテクノロジーの進化を感じさせたが、それと共に反射板を経由して私の眼へと光が伝達されていたものが、センサーを通じてイメージが受容されデジタルイメージとしてカメラモニターに表示されていることが新鮮だった。光は互換性の高いデジタルデータに即座に変換され、イメージとして表示され私たちの眼へと送り届けられるのだ。サイズダウンと軽量化、そしてこの反射板を経由する光の経路から、直接センサーへという光の経路の移行が、私たちの社会に存在するイメージのある種の前提条件になっているように思われた。iPhoneのカメラはもはや穴という空間すら存在しないセンサー直付けのデジタルデバイスであるかもしれないが、それでもこの変化が、個人が発信するイメージをSNS上で物凄いスピードで拡散させたり、私たちが地球の裏側の友達と気軽にビデオチャットが出来るようになったことも、この辺に勘所があるのかと思えた。
人間の眼球やカメラという穴、そして穴という空間がサイズゼロ化されたスマートフォン、そこからアウトプットされるイメージ=鏡。これらのイメージは、穴の奥のスクリーンに存在した、ただ単に映っているプレーンなイメージではなく、感応され、切り取られ、色付けされ、意味付けられたイメージである。そして、私たちが見ているイメージ=鏡の世界は、押し並べて、既に何者かによる上記の工程を経てアウトプットされたものだ。それは私の見る経験に常に先行している。イメージ=鏡を見るという経験において、実は私は私という能動性を失っているという前提があり、イメージ=鏡の側が、寧ろ、私の見るという行為における認識を作り出しているとも言えるだろう。
穴の奥に映し出された仄かなイメージは、どんなに小さな存在であれ世界と地続きのものとしてあっただろう。イメージは穴の中で、切り取られ、加工され、鏡となる過程の中で、世界から分化していく。私たちの情報環境が発展すればするほど、このイメージの分化・人間化も加速していくだろう。それは否定も肯定もできない私たちがこの社会で生きていくことの条件でさえある。
「ミラーレス・ミラー」というコンセプトにおいて、私が考えたことは、現在私たちが生きる社会の情報環境を引き受けながら、この穴から鏡へと到る、イメージの世界からの分化というプロセスとその結果に対して、変化を与えてみたいということだった。イメージの世界からの分化が加速するほどに、そこには人間の欲望を中心とした鏡の世界が展開されるだろう。当然ながら、人間は人間だけが存在する鏡の世界の中のみで生きていくことは出来ない。
「ミラーレス・ミラー」に参加するアーティストたちの展示作品は、穴から鏡へと到る、人間によるイメージの世界からの分化、というイメージの生成プロセスを踏襲した上で、その後、それとは逆に、イメージを世界へと再び繋ぎ直すという、逆向きのイメージ生成を行う。それは一見すると同じように人間によって外部化され、世界から分化した模像の世界、イメージ=鏡のように見えるだろう。
しかし、私たちが「ミラーレス・ミラー」の体験の中で、非人間化へと向かう不可思議なイメージ=鏡という、そのさかしまな作用と出会う時、私たちは、自身の認識が一時的に失調し、未だ確定されていないものへと開かれ、組み替えられつつあることを感じるだろう。
「地底人とミラーレス・ミラー」Part 2, 「ミラーレス・ミラー」キュレーター・ステートメント, 2022年
日常に溢れている情報や身の回りの風景などを構成している映像と、自分との接続関係をテーマとする石井の制作は、既存のイメージを身体に受容し、再度絵画としてそのイメージを出力するという、身体を用いた映像作りというべきものです。
石井によれば映像とは元々、非ー人間的な領域に属していたと言います。写真や映画の誕生の際にはおそらく、人間から独立した異質なものとして の映像の衝撃があったはずですが、映像はすぐに素材として加工されるようになり、人為的な複製品として社会の歯車に組み込まれるようになりま
した。映像を巡るこの変化は、現代社会特有の表層性を生み出す大きな原動力となったことでしょう。何が真実で何が虚構なのかという判断や、現 実感、実在性などに関するわたし達の感覚も、映像の社会への浸透と密接な関係を持っていると言えるでしょう。
そのように映像が浸透している今日の社会では、主体と客体の境界面が複数化し、人は常に表層的イメージに取り囲まれています。今回石井はこれ
まで「Subimage 下位-イメージ」と名付けて取り組んできた、複数化する映像イメージと身体というテーマに物質的な次元を導入します。
石井は、主体と客体のインターフェースである鏡やモニターといった複数の平面、その境界に直接的な事物「石」を挟み込み、諸平面に亀裂を作り 出そうとします。複数のイメージと境界面を貫入するその「穴」を通して、そこにイメージそれ自体の基盤「映像の基底面」が露呈するはずです。
そこではわたし達が常日頃、目にしていながら認識する事が出来なくなっている映像の本来の姿、非ー人間的な「光の仮象の世界」が現れるでしょう。人はその「光の仮象の世界」に接続するよう試みることで、精神分析的な意味における「鏡像段階」以前の状態、自他の境のない、人間の非ー
人間領域=「享楽」を感じ取ることができるはずだと石井は考えます。
享楽平面,プレスリリース, 2019年 (「わたしの穴 美術の穴」製作チーム執筆)
Plane of Jouissance
Themed around the connection and relationship of the human individual with imagery reflecting sceneries and the flood of information that
surrounds us in daily life, Ishii’s artistic practice can be understood as creating imagery by way of his body, for which he translates physically perceived existing images
back into images in the form of paintings.
According to Ishii’s idea, imagery originally belonged to the non-human realm. The emergence of film and photography must have been an impactful
step for imagery as something different and independent from man, but it immediately came to be processed as raw material, and incorporated into the mills of society as
artificial reproductions. In Ishii’s view, the computerization and industrialization of imagery that initially used to be mere replicas brought along significant changes also
in modern society. These transformations revolving around imagery were certainly one major factor that caused the superficialness that is characteristic of modern society. One
can say that our sensibility regarding aspects of reality and substantiality, such as distinguishing between reality and fiction, is closely related to the penetration of
imagery into society.
In today’s society that is infiltrated by imagery, the border area between subject and object has taken on multiple dimensions, as humans are
constantly surrounded by superficial images. This is where Ishii, who previously focused on the human body and pluralized imagery in ”Subimage,” introduces a new material
dimension.
Through the direct interposition of surfaces of ”rocks” on the boundaries of mirrors and monitors as interfaces between subject and object,
Ishii aims to generate fissures in planar surfaces. It is through the “holes” that penetrate images and boundaries in multiple media, that the ”base media of imagery” as the
very foundations of images are exposed, and that is where the original state of imagery that we perceive but have become unable to recognize in daily life, and the non-human
”world of Schein” supposedly appears. Ishii believes that, by trying to access that ”world of Schein,” people will be able to sense that stage that precedes the “mirror stage”
in a psychoanalytical sense, that state of ”jouissance” in which boundaries between the self and the other do not exist.
Through the “holes” in this superficial world that we are constantly interacting with today, be it sceneries or information, you can take a peek
at the ”plane of jouissance.”
Plane of Jouissance press release. 2011
(My Hole: Art in Hole)
イメージのパンデモニウム
田中正之
かつて構造主義的な記号論に基づくコミュニケーション理論が一般的であったときには、コミュニケーションの成立を支えているのはコードだと考えられていた。送り手(話し手)と受け手(聞き手)との間にはコードが共有されていて、そのコードに基づいて送り手の信号が解読されて受け手がその意味を理解する、と考えられていた。しかし、この静的でいささか簡素なモデルは、現在ではもはや素朴に信じられてはいない。何よりも信号(あるいは記号)の解読にあたっては、コードのみが決定因子になっているわけではないからである。たとえば「文脈効果」と言われるように、ひとつの同じ記号ないし信号であっても、文脈が変われば、その意味するところはダイナミックに変わる。受け手の側もまた単なる受動的な存在なのではなく、何らかの文脈との関連付けを行うことによって能動的に意味の産出に加わっている。とすれば、ある記号や信号が持つ意味は、特定の場所と時間とに強く結びついて、そのつどそのつど作り出されるものだということになり、意味の成立とは、やや大袈裟に言えばひとつの「事件」とも言えそうな瞬間的な出来事となる。このような考え方は、記号や信号の意味の成立を説明するための重要な理論だが、同時にまた、意味が成立しない可能性、記号や信号が何を表しているのか、その解読が宙吊りとなる可能性を示唆してもいる(たとえば、関連付けるべき文脈が決定できない状況)。
視覚とは、そもそも特定の瞬間に結びついた断片的な出来事であり、この瞬間的(で断片的な)「事件」を統一的な画面を持った一枚の絵画へと仕立てあげることの困難は、それこそセザンヌ以降絵画に突きつけられてきた問題である。そして、記号や信号が多様な意味を生み出しうると同時にその産出が挫折することもありうるのと同様に、ひとつの視覚的映像もまた、多様な要因に応じて多彩に受け取られ、展開し、混乱しうる。石井友人の作品は、何よりもこの問題を出発点としているように思われる。ある視覚的情報からイメージが作り出されるとき、そのイメージは決してひとつではありえず、あらかじめ定められた命法によって演繹されるようなひとつの統一的イメージへと収斂することはない。まるで「複眼」に映る多様な像のように無数のイメージに展開しうるはずだ。そして、そのイメージがコミュニケーションのなかでさらに他の人々へと伝達されていけば、さらにその展開の多様性は加速していく。伝達のあいだにノイズが混入し、イメージが混乱することもありえる。ひとつの決定的イメージをテロス(目的地)とすることなく、混乱を引き起こしつつも展開を続けるイメージの世界。石井友人の作品は、そのような世界のなかへと人々を誘い込み、統一的イメージの成立など想定しようもない視覚像のパンデモニウム(大混乱、無法地帯)を突き付けてくるのである。
αM Project「複合回路」プレスリリース 2011
The Pandemonium of Images
Masayuki Tanaka
In the past, around the time when communication theories based on the structuralist notion of semiotics were popular, communication was said to be founded on code.
A code was share between sender (speaker) and a reciever (listener), and it was assumed that the sender's signals, based on that code, were deciphered and their meaning understood by reciever.
But this static and somewhat simple model is no longer taken as an article of faith. above all, this is due to the fact that code alone is not the determining factor in deciphering signal (or
sign). For example, as suggested by the term "context effect." even when a sign or signal is the same. in a different context, it's meaning can change dramatically. Moreover, the reciever is not
merely a passive entity but plays an active role in producing meaning in association with certain context. Thus, the meaning contained in a sign or signal is closely connected to a particular
place, and according to what is created on each occasion, the formation of meaning might be seen with only a slight exaggeration, as a kind of "incident" or momentary event. This way of thinking
offers an important theory for explaining the formation of meaning in sign or signal, but at the same time, it also indicates the possibility that no meaning has been formed, poses questions
regarding what the sign or signal represent, and suggests the possibility of suspending it's decipherment (for example, in circumstances in which a context that should be related cannot be
determined).
vision is in the place a fregmentary event that is linked to a particular moment, and the difficulty of tailoring these momentary (and fragmentary)
"incidents" to a single painting containing unified scene is problem that artists have faced ever since the emergence of Cezanne. And while signs and signals produce a diverse range of meanings
their production can also be discouraged, and a single visual image can be received, developed, and confused in a variety of ways depending on many different factors. Ishii Tomohito takes these
problems as the poin of departure in his work. When an image is prodused from specific visual date, it is by no means constricted to one deducted, integrated image through a previously determined
category. By right, images should develop infinitely like a diverse range of scenes reflected in a "compound eye" If these images are further transmitted to other people in the process of
communication , the diversity of their development is further accelerated. And if noise gets mixed into the communication. the images may also become confused. While confusion arises, this realm
of images continues to develop without a telos (destination) for any decided images. Ishii's works invite the viewer to this type of world, thrusting us into a pandemonium of visual images
without any presumptions regarding the formation of an integrated image.
αM Project - Complex Circuit press release. 2011
複眼
石井友人
イメージは見えるもの(あらゆる表示されたもの)を単純に前提とすることができない。視覚世界は、外部からの情報入力と内部における情報翻訳によって構成される。そして、身体における眼→脳への翻訳は、視覚的データ→イメージへの変換と関連付けることができる。
二連画による対解釈をコンセプトとした「イメージ/シグナル」においては、絵画による写真再現を、客観化された視覚として捉え、「光と色彩から来る瞬発的な反応に属する視覚性」(=シグナル)と、「映像認識から空間の構造化へと向かう視覚性」(=イメージ)とを、意識的に対比した。対象化された「イメージ/シグナル」という視覚レベルの質的差異は、可視的情報の複数性とその翻訳可能性を示唆するものである。
その上で複雑化した情報環境に対する一つのアプローチとして「複眼」というモチーフを採用した。「複眼」とは見る事感じる事の原初的メタファーである。「複眼」を視覚情報の信号性とその受信という問題を前景化させるものとして考え、そして、デジタルな信号の受信を身体感覚とシンクロさせるものとして捉えた。「複眼的」という比喩はそのまま、「イメージ/シグナル」がはらむ可視的複数性の謎へと接続するだろう。ペインティングに向かう際は、世界に触れているというデリケートな触覚を常に持っている。自分なりの思考モデルとして、絵画視覚の表現を試みている。
αM Project「複合回路」アーティストステートメント 2011年
The Compound Eye
Tomohito Ishii
It Is impossible to simply preume that images are based on visibe entities (anything that is presented). The visual world is constructed out of date that emanates
from the outside and is translated inside And the translation that occurs within the body from the eye to brain can be linked to the transformation of visual date into an image. In the concept of
of "image and signal" designed to be interpreted through a set of two picture, a photographic reproduction can be seen as an objectified vision achived through a painting, and a conscious
contrast between a "visuality associated with an instantaneous response derived from light and color" (signal) and a "visuality that leads from recognition of an image to the structuring of a
space" (image). On a visual leve, the qualitative difference between the objectified element of "image" and "signal" are suggest by comlexity of visiable date and the potential that exists for
it's translation.
In addtion I have adopted the "compounf eye" as an approach to dealing with a complex information environment. The "compounf eye" is a primitive metaphor for the
acts of seeing and feeling. I see it as something that foreground the issues of the signal-like nature of visual information and it's reception, and as something that synchronizes with physical
sensation of receiving a degital signal. And metaphor of the "compound eye" is also connected to the mystery of visual complexity that is contained within the "image/signal".
In facing a painting, I bring the delicate touch of making contact with the world. I'm attempting to express a pictorial vision through my own type of philosophical
model.
αM Project. Complex Circuit artist statement. 2011
「/」のトポグラフィー
桝田倫広
会場のいちばん奥には、白い花咲く樹木を描いた絵画が展示されている。その側壁には、発色の強い緑や赤を基調としたする線描よって描かれた荒いグリッド状の抽象画がある。一見、何の関連も見出せないこのふたつの絵画は、どちらも同じ写真を基に描かれたもので、ディプティック(二連画)、すなわち一対の絵画として並置されている。対象をより再現的に描いた前者は「イメージ」、その色彩と光を直感的に捉えた後者は「シグナル」名付けられている。
石井によれば、この両者の間は「解像度」の違いがあるのみで、いかなる質的差異もない。確かに彼の作品ではイメージであっても近くで見れば、絵画の集積と認識できるほど明瞭に残されており、イメージの中にシグナルが内在されているとも言える。一方、シグナルにおける式面と線描のざわめきの中から、私たちは元の参照源とは異なるイメージを引き出す事もありえるだろう。とはいえ、明らかに見た目の異なる一対の絵画をヒエラルキーなしに隣り合わせに置く事で、両者の差異が露になり、共通の参照源である対象の多義性が切り開かれる。
ある事象が多様な解釈に開かれること自体は、絵画に限ったことではない。だが石井の関心は、絵画言語において生じる解釈の多様性と、それが生じる場にある。たとえば”Window
(plant)”は、鉢植えのある庭と思わしき光景が三つの異なる視点から捉えられ、フィルムのコマのように縦に繋ぎ合わされている。この作品では画面の地やモチーフの抑え気味の色調に比して、その上に置かれた鮮やかな色の斑点が、イメージの余剰として前景にせり出してくる。これによりイメージとシグナルとの関係に亀裂が生じ、平面であるはずの絵画は深みをもち、不透明な空間の厚みが私たちと絵画空間の間に現出する。この厚みこそ絵画形式特有の「窓」であり、私たちの既成概念や対象が拮抗し、諸差異の産出される場なのだ。
この場とは「S/s」(シニフィアン/シニフィエ)における「/」にジョルジョ・アガンベンが見出したものを思い起こさせる。アガンベンによれば「/」は両者の結合というよりもそれらを分かち隔て差異を産出する壁、あるいは亀裂であり、そこにこそ「意味作用の核心」があるという。とするならば、石井の目論見もまた、差異を過剰に生み出すことではなく、むしろこの差異を生み出す亀裂、すなわち不透明な空間の厚みを推し量り、意味作用の構造を開示することにあるのではないか。
こうした試みのために採用されたモチーフが植物であることは興味深い。なぜなら植物は枝分かれし無数の差異を生み出すばかりか、そこから種子を放出し、まったく別個の樹木(意味の系列)をつくることさえあるからだ。このような諸差異は主体の存在を単に転覆させたり否定したりするのではなく、むしろ連結と断絶を繰り返しながら、不鮮明なほどにもつれあう。こうした幾重にも折りたたまれた亀裂を捉えることは、並大抵のことではない。しかし、石井はこの途方もない現実と向き合うために絵画へと向かうのだ。
美術手帳「アートレヴュー」2011年
「わたしの穴」
わたしの家のお手洗いのドアにはブルース・ナウマンの「Body Pressure」のインストラクションが貼ってある。
ナウマンは「できる限り強く壁に体を押し付けてみろ」と言っている。
正直に言うと、もはやわたしは壁にリアリティを感じない。
目に見えて対峙できる壁などわたしの前にはない。
水の中にいるみたいに、皮膚は全方向から圧力を受けている。
わたしの体はすでに全包囲されている。
穴を掘ろうと思った。
穴はわたしが立っているこの場所にあけられている。
そこでは風も吹かない。
わたしの呼吸がよく聞こえる。
意識の下の方にはきっと同じような穴が続いている。
その場所へ少しだけ帰るのだ。
「美術の穴」
美術というフィールドにそびえる白い壁に、穴にいるわたしの姿を重ねてみる。
穴を掘り自ら作り出した壁に、もう一度自分の体を強く押し付けてみた。
壁の向こう側で、わたしを押し返す何ものかを、未だ想像出来ないのだろうか。
ホワイト・キューブは美学的制度というカギ括弧の中に、作品を挿入するひとつの仕組みである。
しかしわたしの絵を支えているこの壁は、わたしと対峙する明確な理由を、実は示してはいない。
制度的リアリティーの脆弱さは、わたしの表現とも同様に関わっている。
わたしが立っている大地に、シャベルを突き立てる。
ここでの大地というモチーフは、自らの出自や表現媒体に見立てられたものである。
掘るという行為は、表現することの原初的な発生段階と重なる。
わたしが依って立つ場所。
その場所を探索する試みである。
「わたしの穴 美術の穴」展覧会ステートメント
「from/to #3」WAKO WORKS OF ART
高島雄一郎
同ギャラリーが、若手を紹介するために昨年から開催している企画の第3回。その一室で、石井友人の4点の作品が拮抗していた。
端正な空間の白壁それぞれに一点ずつ絵画が掛けられている。一方は鬱蒼と茂る雑木林を彩る桜と空が描かれた作品。他方で、ハレーションともノイズともつかない、縦横に走る鮮烈な色彩が敏活に描かれ、奥行きというよりは広がりを感じさせる作品。大きさこそことなれどこの2点はいわば二連画であり、よく観ると同主題の対解釈であることが判る。
つまり、前者は、作家が自らが撮影した写真を忠実に再現する意図で制作されており。その筆致は薄く滑らかで、あまたの色彩が織り混ざり、穏静かつ荘厳な佇まいを醸している。これは石井が自ら世界をどのように認識しているかを知るために描かれた。そのタッチの一つごとに、彼は自らが「描く」「見る」という所為を強く感じるのだ。現実に拘束されることによって、作者はこの世界における自己の在り方を反芻する。
ならば後者は、彼がどのように世界を表出するのか、という問題に関わっているだろう。こちらは垂直線と水平線の潔い筆致が幾重にもなり、そこで行き交う色彩は前述の作品とは別の基準をもとに対象を再構成している。一方で緻密に描かれていた対象はここでは捩じ曲げられ、私的感情を一層内包しながら、その情報量の多さかにフリーズした画面のようだ。
よって、この二連画は、彼自身の内/外に関する知覚を表裏一体となって現している。これは、彼がタイトルに「信号 Signal」と付すことからも窺える。これは「パソコンにおけるデータ」という意味合いで引用されているそうだが、シグナルとはそうした単なる電気的波形のみならず、絵画を描く際の契機をも意味するのだろう。自我と他我とを結び得る符号としての作品。そんな、彼の作品は、絵画を描くという本意すらも超え、我々が世界を認識するという所為がどういうことなのか教えてくれる。
美術手帳「Gallery reviews」2005年