展覧会ステートメント
昨年、世田谷にオープンしたアーティスト・ラン・スペースXYZ collectiveの同世代のディレクターから、共同で展覧会を立ち上げないかと声をかけて貰う機会があった。
毎日毎日、美術作品の制作に明け暮れていた私は、自身の制作における純粋な動機・批評精神をもとに、純然たるシンパシーを常日頃から感じ続けていた作家や書き手と共に、新たな美学的視座を孕む、絵画的可能性を問いかけるような展覧会を組織しようと決意した。それは、ひとつのユートピア的な空間を形成していく作業に思えた。
しかし正直に言えば、数カ月にも及ぶ企画参加者とのメールでの熾烈な話し合いの中で、当初私が掲げていたメッセージは錐揉み状に叩きつぶされ、もはや雲散霧消してしまい、作家・書き手共に生な姿としてお互い立ち現われているに過ぎず、展覧会場にはある種の破綻として、沈黙としてただ作品があるだけなのかもしれない。
現在それにもかかわらず、作家と書き手の間では独自の往復書簡が横行し、私自身も名付けようのない異様な情熱が展覧会をつき動かし始めている。このようなやり取りは、展覧会と併せて発行される冊子の中に見出すことが出来るだろう。以下の文章はそのような往復運動から生まれたものとして特筆しておきたい。
―明確な意図を持たないつぶやきや独白が、偶々誰かの耳に届き、その人の心を揺り動かすこともあるように、私とあなたとの間にある甚だ不透明な関係性をブラックボックスそのものとして、扱ってみること。それは物質とイメージとの間にある影のような何か。見ることもできず、手触りもない、それでも日々の営みを駆動する、至って素朴で、時代錯誤な剰余物。いかに世界が、あるいは私を形成する他者の欲望が、どんなに資本と消費の原理に塗れていたとしても、囲いこんでおきたい、あるいは囲いこまなければいけない何か。到底共感できないにもかかわらず、常にあなたに差し出され贈与されうる、私ならぬ私の残りもの。いわばこの存在ならぬ存在を、言葉ではなく、会場で、作品間のハレーションによって現出させられること―
あなたはその目撃者である。
石井友人
イメージの振り子ー非視覚的な再現=表象
森啓輔
イマージュという言葉は評判が悪い。
M.メルロ=ポンティの生前、最後に出版された論考である「眼と精神」は、1961年に『アール・ドゥ・フランス』誌第一号に掲載された。そこでメルロ=ポンティは、イマージュの評判の悪さをあげつらうのだが、別の場所ではまた観察不可能性から。そこに「一種の本質的な欺瞞」さえ見出している。少なからずこの否定的な態度が、『想像力の問題』を著したJ=P.サルトルに向けられていたことを差し引いたとしても、「イメージの時代」が強調された1960年代において、イマージュは人々を虜にしながら、同時にその概念の不確かさゆえにいっそう多くの人々を困惑させたと言える。そして、それから半世紀を経た今、イマージュはシュミュラークルへと接ぎ木され、変質を果たすことで、その指示作用の機能不全はより蓋然的となり、もはや形骸化してしまったとさえ言えるだろう。
それでも本展「Pandemonium」の出展者は、絵画でのイマージュの作用について、いくらか肯定的な身振りを演じているかのように錯覚される。例えば、三原色の筆触分割により多重化した植物を描く石井友人や、ラファエル・コラン<花月(フロレアル)>(1886)の図像を、自身の裸体像と取り巻く生活空間によって代理=表象する梅津庸一のように、写真や作品図版といった既製の図像が用いられながら、それらがポイエーシスの中に複雑に組み合わされている。作家間に見られるこの構造的差異からは、絵画による世界の再現=表象において、世界そのものが共約不可能な状態にまだ微分化されていると指摘できそうだが、この時メルロ=ポンティが「眼と精神」のなかでヘラクレイトスの言葉を引用し、それぞれの世界が視覚によって共同の世界へ開かれると述べた事態は、決して生起しえない。そもそも、そこでは共同の世界への開かれの可能性は視覚にこそ担保されており、かつ肉眼をもつ私たちは特権的な<世界の測定者>として定義されていた。しかし、本展において石井が「私とあなたの間」を「ブラックボックス」として解釈しようとする欲望は石井の描く画面のごとく分割された世界像がアプリオリに設計されており、そのような光を遮る箱の内奥へと導かれていく視覚そのものに懐疑の眼差しが向けられている。
このイマージュが表象の手段に用いられながら、根源的には視覚の排除という欲望が潜在していることを、私たちはどのように理解するべきであろう。あるいはこの問いは、次のように言い換えてみてもいいだろう。視覚の断絶による再現=表象の不可能性に直面するとき、絵画は何を表象しうるのだろう、と。この問いにたいして、本展の作家が用いるイマージュの指示対象の決定不全性は、一つの手がかりとなりえるかもしれない。田口和奈の作品にみられる人物のように、そこではイマージュの不特定性、多数性によって、国籍や性別、年齢といった元来人物が備えうる情報が剥奪され、匿名的であるがゆえに現前と不在の間を常に揺れ動いている。さらにこのことに加え、本展の作家の多くが写真というメディアを絵画の制作行為の中に、あたかも存在を担保する証として内在化していることもしておくべきであろう。田口の作品にみられるような撮影する/描くという制作の重層性は、ここでもまた現前/不在の項を揺さぶり続ける。
このような現前と不在の明滅について、ジャック・ランシエールは「表象不可能なものがあるかどうか」という、まさしく論文名が指し示すとおりに、表象不可能な条件下での概念的形象の可能性を模索している。そこでは崇高と芸術の関係のように、その体制や諸条件が問題とされ、表象されるべき対象の本質的現前の不可能性や、あるいは対象の代理物の喪失について、また「意味と非意味の一致」と「現前と不在の一致」が同時に生起する場における表象的な調整の失墜が語られている。さらに、ロベール・アンテルムの『人類』のエクリチュールに、強制収容所での体験としての「小さな知覚の並列的な連鎖」を見出しているのだが、ランシエール自身も並列的なエクリチュールが特殊な体験から生まれることに留意しているように、イマージュの失調によって顕示や意味作用が希薄化した絵画にこそ、その連鎖は転移されるべきではないだろうか。
絵画の筆致にみられるポイエーシスとしての小さな行為と小さな知覚の連鎖について、今一度メルロ=ポンティの思考に立ち戻ることが許されるならば、そこでは「見える世界」と「私の運動的企投の世界」が、同一の存在の全体を覆うものとして措定されていた。だからこそ絵画で表象される画像には、身体的運動が「瞬間的視象」となって、痕跡のうちにその持続が内包されることとなる。しかし、絵画が他者との了解不可能性によって、世界の再現=表象が脅かされ非視覚的なイマージュとして表象されるならば、メルロ=ポンティがいうような等質的な<身体の時間的偏在性>は、小さな知覚によって不可逆的な断片化がなされることだろう。そのとき、絵画の画面に描かれた対象は、動きの瞬間的な視象ではなく、むしろ多重性を孕んだ存在の視象となって表象されている。現前と不在の一致がもたらす多重的なイマージュは、芸術の不能に対する絵画の存在論的な問いかけとして、非視覚的に再現=表象される絵画そのものに宿るのだ。
「Pandemonium」展覧会冊子 2012年
Curated by Tomohito Ishii
@ XYZ collective. 2013
Artists: Yutaka Aoki, Tomohito Ishii, Yoichi Umetsu, Chinpei Kusanagi, Kazuna Taguchi
Books: Tsutsui Hiroki, Tomohiro Masuda, Keisuke Mori
Photo by Mie Morimoto
Operator: Tomoko Minowa
Director: Cobra, Soshiro Matsubara